『日曜日に消えた10万円』

 

 

『日曜日のフロントで』

日曜日の午後、カット専門店は戦場のようだった。
どの美容師もハサミを動かし続け、休む間もなくお客さんをさばいていた。
そんな中、若いお母さんがふたりの小さな子供を連れて来店した。
手にしていたチケットは2枚、金額にしてわずか2000円ほど。

待ち時間も長く、店内はざわめいていた。
ようやく子供たちの順番が来ると、スタッフは手際よく髪を整えていった。
何とか二人をカットし終え、親子はフロントを通り過ぎて、もうすぐ外へ出ようとしていた――その時だった。

お母さんのバッグが床に落ち、中身がフロアに広がった。
周囲は忙しすぎて、誰も手伝う余裕がなかった。
お母さんは一つ一つ、地面に散らばった持ち物を拾い集めた。
その間に、彼女の体は、自然な動きでフロントカウンターの内側へと入り込んでいた。

やがてすべてを拾い終えたお母さんは、子供の手を引いてドアを出た。
その瞬間、ベテランの女性美容師がフロントへ駆け寄った。
表情は青ざめ、声は震えていた。

「釣り銭がない!!」

慌ててスタッフたちは店の外へ飛び出し、親子を呼び止めた。
だが、若いお母さんは取り乱すこともなく、ただ静かにこちらを見た。
その平然とした態度に、さらに不気味なものを感じた。

警察が呼ばれた。
だが、お母さんのバッグからもポケットからも、10万円は見つからなかった。
一瞬のうちに、外にいた誰かへ渡したのだろうか。

あまりにも堂々とした手口。
子供たちの目の前で――。

この出来事のあと、店のフロントには扉が設置され、防犯カメラが取り付けられた。
スタッフたちは、それまで「まさか」と思っていた現実に、心から驚き、そして悲しんだ。

“親の背中を、子は見て育つ。”
そんな言葉が、誰の頭にもよぎった。

あの日の午後、店に残ったのは、忙しさと汗のにおいではなかった。
無力感と、心の底からのショックだった。

――日曜日の、あのフロントで。

 

 

 

 

『日曜日のフロントで ― 続き ―』

警察が親子を連れていったあと、店内には異様な静けさが広がった。
スタッフたちは、誰もが手を止め、互いに顔を見合わせていた。
ハサミの音も、ドライヤーの風も、まるでどこか遠くで鳴っているようだった。

「…あんな小さな子の前で…」
一人の若いスタッフが呟いた。
その言葉に、誰も返事ができなかった。

ベテランの女性美容師、オバちゃんと皆から呼ばれていた彼女は、フロントに腰を下ろしたまま、釣り銭の空になった引き出しをじっと見つめていた。
その顔には、怒りよりも、深い悲しみが滲んでいた。

「あの子たち、大丈夫かなぁ…」

ぽつりと、誰かが言った。
誰もが同じ思いだった。
盗まれた10万円よりも、その親子の未来を案じる気持ちが、胸を重くした。


次の日から、店のフロントには簡易な扉がつけられた。
スタッフの一人が、家にあった古い防犯カメラを持ってきた。
プロの設置業者を呼ぶ時間もないまま、それを応急処置のように取り付けた。

客の流れが少し落ち着いたころ、オーナーがスタッフたちを集めた。
静かな声で、こう言った。

「お金はまた稼げばいい。でも、今日みたいなことがもう起きないように、自分たちで店を守らないといけない。
お客さんを信じる。でも、必要な”備え”は、怠らない。これが、これからのルールだ。」

みんな、黙って頷いた。
心のどこかで、あの日の親子の後ろ姿を思い出しながら。


それから月日が流れた。
防犯体制が整った店は、以前よりも安心感を持って営業できるようになった。
だが、あの日の記憶だけは、ふとした瞬間に胸を締めつけた。

雨の日に、小さな子供を連れた親子が来店するとき。
ふとした仕草に、スタッフたちは少しだけ緊張してしまう。

だが、同時に――心のどこかで願っていた。
あのときの子供たちが、どうか真っ直ぐに育っていますように、と。

人は簡単に変われない。
でも、未来はまだ、変えられるかもしれない。

そう信じたくて、スタッフたちは今日もハサミを握り、
小さな命の髪を、丁寧に、丁寧にカットし続けていた。

 

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